物事の本質とはなんですか?いい加減わかりやすく解説してほしいんですけどぉ・・・
テレビとかインターネットの情報に振り回されてしまったり、他人の意見に流されてしまう自分がもう嫌なんです。
だからネットで「物事の本質を見極める方法」なんて検索してみたものの・・《先入観を捨てる》とか《俯瞰的に捉える》とか《常識を疑う》とか、どの記事もそれらしいことは言っているのですが・・
どーにすれば先入観を捨てることができるのか?
俯瞰的に捉えるってどーゆーことなのか?
どーやって常識を疑えばいいのか?
といった具体例が全然出てこないので、結局よく分からず堂々めぐりです。
だいたいその記事を書いている人が、自分の体験の中から生み出した言葉なのか?それともどっかの本や記事からまとめてきて、それらしく並べてみただけの言葉なのかすら怪しいところです。
そうやって、ネットの記事に踊らされてまた本質を見失っていくんですかね?
学費を無駄にしたけどたった1つだけ得られたもの
私は高校生3年生のとき、東京芸術大学という大学を受験するため予備校に通っていました。(予備校に向かう駅のホームでまんまと タバコがバレて謹慎 をくらうのですが・・)
予備校と言っても芸術系なので、数学や物理、英語といった勉強をする訳ではなく、デッサンや絵画を習いにいくのですが、どんなデッサンをしていたかというとこんな感じのです↓
実際に石膏像をデッサンしたことがあるかもしれませんし、やったことは無くても1度くらいは美術室で見たことがあるかと思います。
その大学は現役で受かることができず、浪人もしたのですが結局ダメで、その後はバンドをすることになり学費を無駄にしてしまったのですが・・
ただこの時の、”デッサンをするという経験“を通して”先入観を捨てる“ということを感覚的に学ぶことができました。
そのおかげで、今でも情報に振り回されそうなときや他人の意見に流されそうなとき、一歩踏みとどまり本質を見ようとしたり、自分の頭で考えようとする思考が回り始めてくれます。
それは、日常生活の中でも、デザインをする際やブログ記事を書く際にも、さまざまな場面で役立っているという実感があるので、ここでシェアしたいと思います。(あなたに役立ててもらえたらきっと学費も報われます。)
先入観を捨てるとはいったいどうゆうことなのか?
先入観を捨てるためには、まず自分が目にしているものに対して「あ、今先入観を持って見ているな~」と自覚する必要があり、その自覚ができない限り捨てることはできません。
当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、人間は自分の目で見ているものは真実だと思い込んでしまう性質があります。
どういうことかというと・・
例えば、初心者が石膏デッサンをする際によくやってしまうのが、石膏像の目から書き始めて、顔の輪郭を書き、徐々に身体を書いていってしまいます。
すると顔と身体のバランスが狂い、場合によっては身体が画用紙からはみ出してしまうなんてこともあります。
しかし、実は・・・
「ここは目だな」と認識している部分はあるけど、眼球は存在しません。
もう少し厳密に言うと、石膏像は人間をモチーフに創り出された彫刻を模って、石膏の粉と水を混ぜて固めて作られたものなので、そこにあるのは凸凹とした”くぼみ“です。
それなのに、視界に入っている石膏の固まりのくぼみの部分を勝手に目だと認識して、目やまゆげを描き始めてしまう訳です・・
また、子供の頃から見ているアニメの顔は輪郭線で囲まれていますが、実在する人物や物体には輪郭線というものは存在せず、観察者の視点から直角に見えている面が輪郭のように見えているだけです。
ようするに、目の前の石膏像を見ているはずなのに、実際には顔には輪郭線があるという頭の中の先入観でデッサンをしてしまっているということです。
このような”見ているつもりで見ていない状態”では仮に休憩時間に、石膏像から白いプラスチック像に交換しても、なんの支障もなくつらつらとデッサンを続けることができると思います。
石膏デッサンは純粋な目で観察するところから始まる。
自分の持っている先入観を捨てながら、純粋に観察することができたとすれば、石膏という物質の重量感やその周りを囲んでいる空間、光の当たり方や影の落ち方、観察している自分と石膏までの距離感を感じ始めます。
そして、より本質を捉えるために自分の視点からでは見えない裏側に回って観察したり、表面の質感を確認するために触わってみるかもしれません。
このときにプラスチックのツルツル感とは違う、石膏独特のサラサラとザラザラの中間のような手触りを確認し、ようやく三次元の白い石膏像を黒い鉛筆で二次元の世界に表現するという、ある意味無謀な作業に挑むことができるようになります。
私が受験に失敗したのは、根本的な技術面が未熟だったことは言うまでもありませんが・・
先入観が捨てきれず人物だという認識で描いてしまっていたり(特に左側)、石膏の質感や重量感も表現できず、空間も捉えきれていなかった(特に右側)ことが原因だと感じています。
もし、当時の私が「あれっ、オレ石膏像を見ているつもりだったけど、長髪でチョビ髭の生えている男だと思い込んで見ていた。」と、具体的に言葉として自分の認識を理解することができたとすれば、
もっと純粋な目で細部を観察し、石膏像の本質に気づくことができたかもしれません。
俯瞰的に捉えるってどーゆーことなのか?
私たちは普段、石膏像のように目に見える物質だけではなく、さまざまな情報に触れながら生活をしています。すると・・
あっちでは○○だと言っているのに、こっちでは□□と言っていたり、まったく正反対の意見が飛び交い、どっちが正しいのか?いったい何を信じればいいのか?わけが分からなくなり、、
「いいかげん誰か本当のことを教えてくれ~!」と叫びたくなります。
しかし、物事には万物に共通した絶対的な正解(本質)はありません。
もしあるとすれば、絶対的な正解よりも「ちょっと正しいけど何か違うよね?」「今はそうかもしれないけど変わるかもね?」といった曖昧な正解らしきものがあるにすぎません。
成熟するということは、曖昧さを受け入れる能力をもつということ:ジークムント・フロイト
さまざまな意見が飛び交う情報の中から本質を探そうとしてしまうと、いつのまにか自分が情報に振り回されてしまいますが・・
石膏像の周りを回って観察するのと同じように、1つの物事(情報)に対して、さまざまな角度から観察することで物事の本質を捉えていくということです。
しかし、自分ひとりの視界には限界があります。状況によっては裏側まで回って確認することができないかもしれません。
だからこそ、自分の意見と違う人とすぐに対立するのではなく・・
違う角度から見ている彼の主張に耳傾け、自分にはまだ見えていない視点を獲得し、まだ知らないこともすでに経験をしている先人から学び、理解する姿勢を持つことで狭~い視野を”ブイっと”広げることができます。
※ちなみに、多数の意見を聞きすぎて流されてしまい結局何が正しいの?ではなく、自分なりの答えっぽいものを見出すための”判断材料”をたくさん集めるということです。このニュアンスの違いがとても重要。
もしこのような俯瞰的視点を身につけることができれば、あらゆる場面で物事の本質を垣間見ることができるようになります。
どーやって常識を疑えばいいのか?
世の中には『1+1=2といった絶対的な正解』がありますし、『鏡は逆に映すといった常識』があります。
それなのに「1+1=10ですけどぉ~」と言ってみたり「鏡は左右逆になんか映してないよ、まんま映してるじゃん」と常識外れなことばかり言っていると、周りの人からあぶない奴だと思われてしまうかもしれません。
しかし、常識を疑うというのは、まさしく「1+1=2以外の答えってあるかも?」「鏡はもしかしたら逆に映していないのでは?」と、考えてみるところから始まります。
常識を疑ってみる ⇒常識とは、18歳までに身に付けた偏見のコレクションである:アルベルト・アインシュタイン
そして、常識から逸脱した自分なりの答えを見つけることができたのなら、今度は”常識を持った人”にちゃんと伝わるように説明してみる。(説明ができないとあぶない奴のままで終わってしまうので)
そうすることで、変な情報に振り回されたり、なんとなく他人の意見に流されてしまうのではなく、しっかりとした自分の考えを持つことができるようになり、それが自信につながっていきます。
物事の本質についてのまとめ
《先入観を捨て》《俯瞰的に捉え》《常識を疑う》ことができたとすれば、今よりひとつ抽象度の高い視点から物事を見ることができるようになり、自分の見ていた世界が広がります。
でも、それで本質が掴めたかどうかというと・・
残念ながらそんなこともなく、むしろ見ている世界が広がった分だけ、より多くの正解らしきものや不確定なものが増え、そのなかで自分なりの納得できる答えを導き出していく必要が出てきます。
そう考えると本質とは、”それを見ようとする姿勢を持つ“ことで、世の中の曖昧さを受け入れ、不都合な物事に対しても目的を見出しながら、成長の糧にしていくものなのかもしれません。
それが人生の醍醐味でもあり、楽しさでもあるのだと思います。