お金の「お」が意味するもの
あなたはお金についてどんなイメージを持っていますか?そもそもお金とはどういったものなのでしょうか?
お金の価値観
普段はあまり気にして考えることなく使っていたりするものですが、これほどまでにそれぞれの価値観が投影されている物質は他に存在しないといっても過言ではありません。
鏡のソレのように、お金は私たちが見たままを映し出します、純粋に見れば純粋な振る舞いをし、不徳なものとして扱えば不徳な振る舞いをします。
- お金で幸せは買えない
- お金がないと心まで貧しくなる
- お金は人を裏切らない
- お金を持っているひとはケチだ
- お金の切れ目は縁の切れ目
現代社会で生活していくためには無くてはならない必要不可欠なものという共通認識は持っているにも関わらず、必要以上に崇めてみたり、ときに憎んでみたり、さまざまな価値を植え付けしまうのがお金という摩訶不思議な物質なのではないでしょうか?
ここではお金という物質がどういうものなのか?改めて考えてみましょう。
小学校のころ理科の実験で水は沸騰させることによって気体になることを教わりました、凍らせれば個体にも変化します。お金も紙という物質でありながらコンビニへ行けばペットボトルの水に変化します、ロックアイス(氷)にも変化させることができます。
もちろん科学変化のそれとは意味が異なりますが、沸騰させる、店員さんにお金を渡す、どちらも物質に作用を加えることで、もとの原形を変化させているという点では同じです。
そしてお金の本当にすごいところは、世の中のありとあらゆるものに変化することです。
パソコンや衣服などの物質だけではなく、タクシーや電車にお金を使うことで 距離 や 時間 に変化させることもでき、CDや本に変化させれば 音 や 知識 に変化させることも可能です。
ここでもう一歩踏み込んでみましょう。
たとえばCDという物質に変化させた場合、コンポをとおして音楽に変化し、音楽は空間を振動させ聴くひとの心を揺さぶり心地よさや高揚感を与えてくれます。車であれば時間のもたらすゆとりや優越感にも変化するでしょう。
そうです、お金は最終的に必ず感情に変化しています。いえ、本当は感情を満たすためにお金は使われているということに気づかされます。
マーケティングに精通した方であれば、この部分にフォーカスできるか、できないかで売上が大きく左右することを熟知しているはずです。
お金の稼ぎ方
さて、使い方と対照的にお金の稼ぎ方はどうでしょうか?
以前の私は、ストレスを溜めようが、肉体をこき使われようが労働力を賃金に変えるためにせっせと通勤する毎日を送っていました。常識なのでそこに疑問を持つことはありません。けれど、働けど働けどお金が貯まることなどなく、月末にはいつも財布と相談しながらお昼を食べる、そんな状況でした。
お金とは感情の果実
感情をすり減らしながらお金を稼いでいた私の心は満たされることがありません、月末に入ってきた給料は、すり減った感情を満たすため浪費されていきます。浪費してしまったお金を稼ぐためにまた感情をすり減らしながら・・・
このサイクルから抜け出すには、やりたいことを仕事にするしかありません。
仕事をしながらも感情が満たされていれば入ってきた収入を浪費する必要性がなくなり、あふれた分を投資にまわすことができます。
それは株式やビジネスへなどのいわゆる投資だけではありません。ストレス発散のための浪費旅行ではなく、活力をもたらすための投資旅行にすることができるかもしれません。
「そんなことをいっても、やりたいことを仕事にするのは難しい」それだって固定観念がそう思わせてるだけです。
お金を感情に変えている(消費)ように、感情もお金に換える(生産)ことができます。
その具体的な方法を提案していくことも、このブログのひとつの目的です。
良い感情も悪い感情もお金に変えることができてしまいます。絶対にしてはならないことは悪い感情をお金に変えることです、振り込み詐欺のように人の恐怖心を煽ってお金にした場合、悪い感情(お金)が手元に集まりいずれ自らを滅ぼします。
ここで因果応報といった類の話しをしたいわけではありません。私たちは自分の認識が身の周りの世界を作り出すことを理解しています。良い感情を力いっぱい表現して不穏な現代社会に風穴を開けてやりたいものですね。
兌換紙幣と不換紙幣
お金について感情論から話を進めてしまいましたが、ここで改めて私利私欲などすべてとっぱらってお金という対象物を純粋に見ていきましょう。
現在のお金(お札)は不換紙幣です。
といっても高卒の私にはピンときません、学校教育で習った記憶がないのです、もしくは授業をさぼっていたのかもしれません。こういった知識を必要とするときもっとまじめに勉強しておけばよかったとつくづく感じます。
実際に学校の先生方がどれほど理解しているのかはQuestion?ですが。
お金の原点は貨幣、物資交換の媒体物。価値尺度の図れる鉱物(金や銀など)、価値貯蔵が可能な加工、流通手段に適した形状、をしていたわけです。
しかし貨幣を直接流通の場で用いた場合、その重量や一見でその純度を図ることができないことなどの問題があるため、希少価値のある鉱物からなる貨幣(鉱物)を銀行が預かり、その価値を保証する預かり証が貨幣(紙)として流通するようになります。
明治時代、その紙でできた貨幣を銀行に持っていくと記載された量と同等の金もしくは銀に兌換(引き換えること)することができました。
いわゆる兌換紙幣とは、紙という材質でありながら希少価値の高い鉱物と同等の価値があるものとして扱われていたわけです。
その後、経済が発展していくに従って貨幣流通量も増大し、金や銀の裏付けを必要としていては経済成長に支障がでるため、昭和に入り兌換義務を負わない不換紙幣(金や銀に交換するこができないお金)へと姿を変えて、現在に至ります。
よって法律上も兌換の義務がなくなった紙幣には金や銀などの裏打ちされた価値はありません。不換紙幣は国の信用で流通しているものです。
国の信用、、、
私たちは1万円札が実質原価約22円の紙の印刷物でしかない、と理解したところでその憂いを断つことができないのは国を信用しているから、ということでしょうか?
金(キン)の前に尊敬語、謙譲語、丁寧語に使われる「お」の意味するもの、誰がどの時代から「お金」と呼ぶようになったのかは分かりませんが、きっと不換紙幣になった頃からだろうと推測がたちます。
国が私たちに「お金は金より信用できる尊いものですよ」と認識させる意図があるように感じてしまうのは私だけでしょうか?
国の信用から成り立つ現代のお金、国の信用が落ちたときどのようになってしまうのか?
想像力を働かせなければ、今何をするべきなのか見えてきません。純粋な目で見てしっかりとお金と向き合わなければいけない時代に突入しているのかもしれません。